友人の外人忍者が持て来てくれたオーブリオン

海外からわざわざ持って来てくれた1本だったらしく、状態は非常に良い。
あえて和食と合わせましたが、とても美味しく合わせることができました。
良いものは良いという事を教えてくれるワイン。

 

ワインデータ

ワイン名:Ch. Haut Brion Rouge
生産地:France > Bordeaux > Graves
生産者:Ch. Haut Brion (シャトー・オー・ブリオン)
品種:Cabernet Sauvignon (カベルネ・ソーヴィニヨン), Merlot (メルロ), Cabernet Franc (カベルネ・フラン)
スタイル:Red Wine

ワイナリー

ブドウはローマ時代からこの地所で生えていたと思われるが、土地の一画を耕したという文書記録は、もっとも古くて1423年のものとなる。
地所は1509年、ジャン・ド・セギュールによって購入され、1525年、海軍大将フィリッパ・ド・シャボーの所有になった。

1525年4月、ジャン・ド・ポンタックはジャンヌ・ド・ベロンと結婚する。
ジャンヌは、オー・ブリオン領主のリブルヌ市長の娘であり、持参金として地所をジャンにもたらした。
1533年にはオー・ブリオンの邸宅を購入し、1549年にシャトーの建設が始まる。

1649年、アルノー3世・ド・ポンタック卿がオー・ブリオンの所有者となり、ワインの人気が本格的になった。
オー・ブリオンのワインについての最初の記録は、イングランド王チャールズ2世のワインセラーの元帳で見つかる。
1660年から1661年の間に、「オーブリオノのワイン」169本が王の宮廷に収められたのである。
サミュエル・ピープスが日記に記したところによれば、1663年4月10日、ロイヤル・オークの居酒屋でワインを試飲し、「オー ブリエンと呼ばれるフランスワインを飲んだが、いまだ味わったことのない、おいしいワインだった」という。

1666年、ロンドン大火のあと、息子のフランソワ・オーギュストがロンドンに「ポンタックの看板」という名の居酒屋を開いた。
この居酒屋は、アンドレ・サイモンによれば、ロンドンで最初に流行した飲食店であった。
ジョナサン・スウィフトが「ワイン大瓶につき7シリング」と書いている。

17世紀の終わりまでに、地所の広さは264ヘクタールに達し、そのうち約38ヘクタールがブドウ畑であった。
ワインはしばしばポンタックの名で売り出された。
ポンタック家は多くのワイン農園を所有し、この名前を使用することもできたため、オー・ブリオンのワインがいつ作られるようになったかは不明である。
ポンタック Pontac はしばしば Pontack とも綴られ、ブランクフォールにあるポンタック家所有の、白ワインを産出する別の地所もまた、この名前で売り出された。

イギリスの哲学者ジョン・ロックは、1677年にボルドーを訪れ、オー・ブリオンの話を残している。
「…ポンタックのワインは、イギリスで尊重されているが、最西に向かって開けた、小高い丘の上で造られている。 地所は純粋な白い砂で、少量の砂利が混じっている。…」。
ワインの価格が高まりつつある理由については、「金持ちのイギリス人が、金に糸目をつけないで注文するお蔭」だと書いている。
ドイツの哲学者ヘーゲルもまた、ポンタックのワインに魅せられていたが、彼の注文はサン・テステフの他のポンタックワインのものが知られているのみである。

フランソワ・オーギュスト・ド・ポンタックの死により、婚姻で義理の甥となったフランソワ・ジョゼフ・ド・フュメルがオー・ブリオンの3分の2を、3分の1をラトレーヌの領主ルイ・アルノー伯爵が相続する。
フュメル一族はまた一時期、シャトー・マルゴーをも所有していた。

1787年、駐仏大使だったトーマス・ジェファーソンが、ボルドーを訪問する。
5月25日、彼はオー・ブリオンを訪れ、そのテロワールについて、「オー・ブリオンの土については、かなり詳しく調べた。 砂に、丸い石や小さな石、あるいはメドックにふさわしいロームがごく少量混ざっている。 彼の記録でオー・ブリオンは、第1級ワインの産地4つの間に位置付けられている。
「オー・ブリオン、3分の2はド・フュメル伯爵の所有であり、バルトンと呼ばれる商人にその収穫を売り渡した。 残り3分の1はトゥールーズ伯爵のものであり、合わせるとシャトーは75バレルを算出することになる。」。
オー・ブリオンは、第1級ワインの中では、初めて公式にアメリカ合衆国に輸入されたワインとなった。
ジェファーソンは、この旅でオー・ブリオンを6ケース購入し、バージニア州の自分の屋敷に送らせたのである。

フランス革命の結果、1794年7月、ジョゼフ・ド・フュメルはギロチンにかけられ、彼の資産は分割された。
その死後、ド・フュメルの相続人はジョゼフの赦免状と没収された資産の補償を入手したが、彼らはフランスを去った。
1801年、オー・ブリオンは、ベネヴェント公爵でもあったタレーランに売却され、彼は3年間オー・ブリオンを所有していた。

1804年から1836年はオー・ブリオンの停滞期となり、所有者が次々と代わっていき、最後に競売にかけられたオー・ブリオンをジョゼフ=ウージェーヌ・ラリューが購入する。
1841年にはシェ・ヌフ( Chai-Neuf、「新しい酒蔵」の意)をカトラン公爵から購入して、1694年のフランソワ=オーギュスト・ドポンタックの死以来ばらばらになっていた地所を、元のように一つにまとめた。
ラリュー家は1923年までオー・ブリオンの所有者であった。

パリ万国博覧会開催に際し行われた1855年のボルドーワインの格付けで、シャトー・オー・ブリオンは第1級に位置付けられ、他の3本がメドック産であった中、唯一のグラーヴ産第1級ワインとなった。
19世紀、オー・ブリオンの価格は、他のどのボルドーワインよりも常に高価であった。

近代の歴史
困難な時期が続いて、どの所有者も不成功に終わった後、1935年5月13日、アメリカの銀行家クラレンス・ディロンがシャトー・オー・ブリオンを 2,300,000 フランで購入する。
この獲得にまつわって真偽のはっきりしない逸話がいくつか出回り、ディロンは、シャトー・シュヴァル・ブラン、シャトー・オーゾンヌやシャトー・マルゴーの大部分をも購入しようとしていると思われていた。
しかし彼は、雨や寒い日に出かけることを好んだわけではなく、ボルドーや乗馬施設への交通の便の良さでオー・ブリオンを選んだという。
ディロンは車から降りようともしなかったという逸話も存在する。

ディロンは、甥のセイモア・ウェラーを新会社「ソサイエティ・ヴィニコール・ド・ラ・ジロンド」(のちにドメーヌ・クラランス・ディロン社と改名)の社長に据える。
彼は50年間この仕事を務めた。
ウェラーは庭園を整備し直し、ワイン蔵を清掃し、新しい醸造装置と電気を導入した。
彼はジョルジュ・デルマスを、オー・ブリオンの支配人兼責任者として1921年から雇用、ジョルジュはシャトー・コス・デストゥルネルの農場責任者も務めた。

オー・ブリオンは最初に、古いデキャンターの型を模したその特徴的なボトルを1958年のヴィンテージ(発売は1960年)から使用し始めた。

ジョルジュ・デルマスは1961年に引退、オー・ブリオンで生まれ育った息子のジャン=ベルナール・デルマスが後を引き継ぎ、いくつもの革新に取り組んだ。
1960年代、オー・ブリオンは大きな生産所としては初めて、新しくステンレス鋼の発酵タンクを導入した。
1972年にはINRAと農業省の協力を得て、分枝栽培のクローン選別の研究に取り組み始めた
たった1種類のクローンからでは素晴らしいワインは生まれないと主張して、ジャン=ベルナール・デルマスは、「優れたクローンがたくさん要る」そして「我々は、それぞれの木がどこに植わっているかを知っている」と述べた。
オー・ブリオンでは、ヘクタールごとに10~15の異なった選別のクローンが植わっていたにもかかわらずである。

1975年、83歳でセイモア・ウェラーは社長を引退した。
彼のいとこの娘でクラランス・ディロンの孫娘、ルクセンブルク大公国大公子シャルル・ド・リュクサンブール妃、のちのムシー公爵夫人ジョアン・ディロンがその責を継いだ。
1976年には、歴史的なワインの品評会「パリの審判」で、フランスやカリフォルニアの赤ワインの中からオー・ブリオンの1970年のヴィンテージが、第4位に位置付けられた。

オー・ブリオンとシャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオンとは、数年にわたって激しい競争関係にあり、1970年代から1980年代初期にそのピークを迎えたが、ドメーヌ・クラランス・ディロンが1983年にラ・ミッションを購入することでその競争も終了している。

2007年のヴィンテージ以降、ディロン家が所有権を得て75周年になるのを記念し、新しくセカンド・ワインがラ・クラランス・ド・オー・ブリオンの名で発売されている。
シャトー・バーン・オー・ブリオンの名は、ヴィンテージの表示なしで販売された期間、少なくとも1世紀にわたって使われていた。

支配人のジャン=ベルナール・デルマスは2003年に引退し、彼の息子のジャン=フィリップ・デルマスが後を継いだ。
ルクセンブルク大公国公子ロベール・ド・リュクサンブールは、18歳からオー・ブリオンの取締役を務め、2008年にはドメーヌ・クラランス・ディロンの副社長となった。

このワインは

春と夏を通して西ヨーロッパの多くに影響を与えた干ばつはその影響をボルドーで感じさせました。
暑く乾燥した気候は9月中旬に嵐が始まるまで続き、早い時期に始まった収穫を中断しました。
夏の猛暑により、とても厚いタンニンになりましたが、最初は非常に心地良い果実味で覆い隠されていました。
しかし、この年の雨は果実味の希釈を引き起こし、タンニンは多くのワインの中で分離してしまい、ワインの出来は最初に期待されたほどではありませんでした。
ほとんどのワインはこの10年で味わいが非常に良くなりました。
最もバランスのとれたワインはポイヤック、サン・ジュリアン、グラーブで登場しましたが、今日では至るところでワインの品質が良くなています。

テイスティング

セカンドの2009年との飲み比べ。
セカンドがまだ若く、熟成感がないので不利ですね。
退色しレンガ色。
非常に暑い年だった1976年。
その為かまだ凝縮感の名残を感じます。
まだ濃厚さを感じる。
味わいよりも年代を飲む。

和食で味の薄めな魚料理と合わせたのですが、和の繊細さを壊すことなく美味しく飲むことができました。

飲んだ日:2012-04-24
飲んだ場所:ふる川
買った日:2012
買った場所:海外
価格:45,000円(当時)

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