知人がワイン会に持って来てくれた貴重なワイン。
トルコに行った時に購入したままいつ飲むかとずっと眠っていたというワインです。
野生感のあるピノ・ノワールみたいで面白い。
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ワインデータ
ワイン名:Kalecik Karasi
生産地:Turkey
生産者:Kavaklidere (カヴァクリデレ)
品種:Kalecik Karasi (カレジック・カラス)
スタイル:Red Wine
ワイナリー
カヴァクリデレ・ワイナリーの物語はスイスで始まりました。
トルコ人の青年ツナリ・ヒルミは、元々は軍の大佐として、次に国会議員として政治組織「統一と進歩委員会」のメンバーでしたが、スイスにいる間に有名なジュネーブ家の娘と結婚しました。
彼らにはセブダとインサンと名付けた娘と息子がいました。
これらの子供たちはトルコとスイスの両方の文化で教育を受けました。
スイスで病気の治療を受けている間、ガラタサライ高校の学生であるセブダ・ツナリは、ドイツで経済学を学んだ裕福なプロブディフ一族の息子セナプと結婚し、アンドという家名になりました。
夫婦はアンカラに移住しました。
セナプはイシュ銀行で従業員として働いていました。
彼らの先見の明、あるいは今まで受けた教育のお陰か、夫婦はアンカラのカヴァクリデレ地域でブドウ栽培と公共事業の改善の大きな可能性を見ました。
スイスの銀行家の友人から融資を受けた夫婦は、ワイナリーを設立することを目的として、国の経済状況が良くない時期に倒産し、長年放置されていた枯れたブドウ園と、カヴァクリデレ地域の別のブドウ園と土地を購入しました。
この間、インサンは外務省に就職し、本国と海外で職務をこなしていました。
1929年夫婦は、ジラート銀行で職長として働いていたバラジ・ウスタに偶然会いました。
彼はハンガリーの村に住んでいたときに学んだ技術を使用して地元で購入したブドウで自分のワインを作っていました。
そしてセブダとセナプに大きな助けを与え、アンカラで取得したブドウ園からワインを生産するという彼らのアイデアを実行しました。
この偶然の出会いにより、当時の可能性を秘めた最初のカヴァクリデレのワインが生産されました。
夫婦は、ヨーロッパから輸入されたワインの専門家、ワイン設備、材料とともに、ワイン製造施設を開発し、ワインの品質を向上させていました。
彼らはまた、彼らが購入した今日のイシュ銀行の建物や他のブドウ園や土地に負っている借金を返済しなければなりませんでした。
彼らはカヴァクリデレを家族経営の会社として設立しました。
カワクルデレの株式を持っていたインサンは、外務省を去り、急成長中のこの会社に加わりました。
会社はすぐにトルコの有名な高品質ワイン生産者になりました。
彼らは近所に購入した広大な庭園の真ん中に別荘を建てました。
会社が継続することを確実にするために、夫婦は息子のメティンを社員として採用し、インサンはイスマイル・ウグルルを養子にとりました。
新しいメンバーを持つ家族の成長は会社に新しい勢いを与えましたが、その後まもなくセブダは自動車事故で亡くなり、更にインサンの予期せぬ死とともに会社が不安定になり、回復するのにかなりの時間がかかりました。
メティンは製造業よりも美術を好み、学術的なキャリアを選びました。
彼は徐々に家族との接触を失い、コミュニケーションを取りませんでした。
妻の死後、セナプは、セブダ-セナプ・アンド財団とその音楽的および文化的イベントにさらに時間を費やし始めました。
これらのイベントは、インサンの未亡人であるネリメとその養子であるウグルルによって管理されていました。
セナプは妻が亡くなった後も何年も独身でした。
彼はドイツとフランスで学び、最初の民主党政権の間に国家教育大臣のポストに任命された有名な教育者であり政府の役人であるアヴニ・バシュマンの娘であったアイシェ・セブザ・バシュマンと結婚しました。
ネリメの死去に伴い、彼女の相続人はパートナーとして入社しました。
この社員の増加により、会社のステータスを確認する必要がありました。
しばらくの間、セナプ、彼の妻セブザ、ウグルル、グルセレン、およびネリメの相続人を代表するアイディン・シダルによって管理されていました。
これらの管理方法のせいで、会社の運営は停滞しました。
ネリメの相続人から各家への株式の段階的な譲渡とアイディン・シダルの死後、会社の業務は株式の過半数を所有していたアンド家のメンバーの許可を得て管理されました。
会社の他のパートナーとこれらの管理方法は、セナプの死後も継続されました。
市内のブドウ園と生産施設の拡張と成長の可能性の欠如、ブドウ園と施設を含む土地の価値の増加、そして会社が財政難に陥ったという事実は、当然いくつかの選択肢につながりました。
この問題の解決策には、会社の解散、新しいワイナリーを建設するための土地の売却、ワイナリーの移転とその資産の有効活用が含まれていました。
既存のワイナリーを改修せずに移転することはできず、財政的に不可能だったため、新しいワイナリーを建設することが決定されました。
元の物件をカヴァラ・グループに売却した後、アンカラではなくトラキアに新しいワイナリーを建設するというアイデアは、パートナー間の意見の不一致を引き起こし、会社の解散につながりました。
セブザそして彼女の兄弟であるメーメット・バスマンが会社に入りました。
彼は公的部門と民間部門の両方でエンジニアとマネージャーの両方を務めたプロのエンジニアであり、国連と世界銀行のコンサルタントとしての義務も果たしていました。
長い闘いの末、実現可能性調査が行われ、カヴァクリデレ・ワイン社を別の場所に移すことには利点がないと結論付けました。
また、移転により会社が衰退または閉鎖される可能性もあると述べたため、パートナーは同意するように説得され、会社の運営に対する全責任を引き継ぎました。
同社の新経営陣は、エセンボーア空港の向かいにあるアキルトの50haの土地を購入しました。
アンカラ農業学部とフランスのコンサルティング会社ソゲレーグとの間で協定が締結されました。
投資に対する政府の支援が得られ、クレジットは銀行によって承認されました。
敷地内には20ha以上のブドウ園が植えられ、4万hLの容量を持つ最先端の生産、貯蔵、瓶詰め施設が建設されました。
施設は1987年のヴィンテージまでに生産を開始しました。
工場は年間生産能力と売上高を4倍に増やしました。
会社設立から85年目
商業用などの新しい建物の建設、ショッピング通路、大小を問わず無数のホテルにより、カヴァクリデレ地区はアンカラで最も急速に成長している観光および商業地区の1つになっています。
カヴァクリデレでは、セナプのお抱え建築家であるエミン・オナットによって設計されたアンド・ハウスを除いて、ほとんどすべての共和国後の別荘が商業ビルに道を譲るために取り壊されました。
シェラトンホテル&コンベンション・センターとカルム・ビジネスセンターは、元のカヴァクリデレ・ワイナリーの敷地内に建てられました。
セブダ-セナプ・アンド音楽財団が販売する共有物件には、今日ヒルトン・ホテルがあります。
カヴァクリデレは、アンカラ-アキルト、エゲ-ペンドーレ、カッパドキア-ギュルシェヒルにある近代的な設備の整ったワイナリーで生産される年間1950万本のワインの総貯蔵容量を持っています。
ワイナリーはブドウ栽培の研究開発活動を続け、トルコのさまざまな地域にあるブドウ園に国際的なものを適応させようとしながら、先住民族のアナトリアのブドウ品種を促進しています。
ブドウ栽培とワイン製造に関する文化的および教育的な出版物で、ワイン製造とワイン文化の発展とそのトレーニングのリーダーであり、定期的にワインと食事の夜を開催し、製品と世界の料理を調和させています。
好奇心旺盛で意識の高いワイン愛好家に教育体験を提供します。
食品および飲料セクターを対象としたホレカ・トレーニング、およびホレカ・セクターでのキャリアに参入したいプロのワイン・テイスターやその他の候補者向けの「カブ・エコル」と呼ばれるトレーニングを行っています。
カヴァクリデレは、美術、特にセナプとセブザによって設立されたセブダ-セナプ・アンド音楽財団の道徳的および金銭的支援を継続しており、国の音楽文化の発展に責任を負っています。
財団は、アンカラのコンサートホールや文化センターでプロジェクトを組織し、アンカラの伝統的なイベントである国際アンカラ音楽祭を開催して開催することにより、国内外の音楽の鑑賞を促進しています。
このワインは
カレジックカラスは中央アナトリアの絶滅の危機に瀕していた葡萄品種でアンカラ大学とカヴァクリデレ社の研究により甦った幻の品種。
テイスティング
カレジクカラスがブドウ名だと知らずにブラインドで飲み始めました。
最初香りを嗅いだ時はピノかと一瞬思いましたが、それにしては土臭さというか田舎臭さがあります。
味もピノっぽいんだけどなあ…などと皆でワイワイ。
この時間も楽しい。
結局種明かしされてトルコとは盲点でした。
幻の品種…美味しく頂きました。
飲んだ日:2014-06-13
飲んだ場所:ラ・サンテ
買った場所:トルコ
価格:6,000円